仙台「アルフィオーレ」の今
ちょうどその時、ヨーグルトを器によそっていた。ぐらっと来たが、いつもの微震とやり過ごすつもりだった。
けれど、どんどん揺れは大きくなり、慌てて近くの机の下に潜って本や立て掛けた写真の落ちる音や
サイドボードの中の、器や瓶の倒れる音を聞いていた。
震度6弱、初めての体験。
怖かった・・・けれど、それから日を追うにつれ、それどころではない災害が、広い地域を襲ったことを知る。
東北関東大震災、2週間経った今もまだその全容は見えないままだ。
たかがブログではある。
けれど、どう再開しようか?悩んでいた。東北地方は、親戚や友人が多くいる地だ。何か、メッセージを送りたい。
そして、考えているうちに、昨秋行った時に立ち寄った、飲食店の方達はどうしているだろう?と気になりだした。
「アルフィオーレ」情熱大陸でも紹介された、有名イタリアンレストラン。私は、カウンターに通された。
レストランで「何か嫌いなものはありますか?」と聞かれることはままある。
けれど、シェフは静かに「何か、これが食べたい!というものはありますか?」と言った。
恥ずかしながら、予備知識がなかったので、予算を告げて「お任せします。」と答えた。
それから、「もう、無理です・・。」というまで次々料理が運ばれた。大盤振る舞いだった。
だんだん打ち解けて、話もした。シャイだけど、料理が大好きで優しい人だということが伝わる、良い時間だったと思う。
そして、その目黒シェフの3月13日のブログ。
「明日からは、少しですが私にできることをしていくつもりです。今日、残ったものでカレーを作りました。
それを明日から提供させていただこうと思います。私の至らなさと財政面の事で、とても恥ずかしいのですが、
300円~400円で提供させていただきます。」大衆食堂宣言だった。
25日には、念願だった避難所への炊き出しも実現した。
仙台市内に住む従姉妹の子供達は、県職員として被災地で働いている。そして、近所の斎場には、昨日もご遺体が100体待つという。
80になる叔母は、住み慣れた半倒壊の家を出て、借家住まいを決めた。
いわき市の友人は、非難した高台から、家が、親族が波にさらわれるのを見たという。
そして、原発からの放射能の影響で、ゴーストタウン化する町で何か出来ることはないか?探しながらさまよっている。
家族が重病に倒れたとき、残りの家族は元気に働かねばなるまい。苦しみを、本当にわかることは出来ない。
それでも寄り添う気持ちで、出来ることを長いスパンで探したい。
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by f_line21
| 2011-03-26 21:34
| 旅先から 東北地方